皆さんおはようございます、猫枕です。
【ほめくり、修造❗️】
の29日を見てワタクシは大昔の【一日高校野球部】のことを思い出しました。
練習を始める時、近所の同級生の野球部員から、
『いいぞ、谷❗️』
と言われたのです。
その男は野性味あふれるスポーツマンで、のび太なワタクシとは全然遊んだことはなく、初めて声を掛けられたのがその一言でした。
(最初で最後になりましたが)
さらには、当時の巨人でショートのレギュラーだった河埜和正選手も思い出しました。
背番号29でした。
彼は八幡浜工業高校出身で、
丁度ワタクシがプロ野球を見始めた、長嶋選手引退の年、
1974年ごろから出場機会が増えてきました。
当時のプロ野球中継は巨人戦しかなかったので、テレビを見たら大体いつも彼が出て来ましたが、
全くの身内感覚で見るのに物凄く力が入ったものです。。。
(出典:jiji.com)
背番号29時代(1974~8年)
(出典:page.auctions.yahoo.co.jp)
ワタクシが一番熱中してテレビのプロ野球中継を見ていたのは、第一期長嶋巨人の1975~6年でした。
75年(小6時代)は悪夢のような最下位の年でしたが、【鉄砲肩の河埜】を買われて長嶋監督にレギュラーに抜擢されたとのことです。
裏話として、何度教えても出来ない時は殴られたこともあったそうで、
随分期待されて熱血指導を受けていた模様です。
長嶋監督はお笑い芸人に色々モノマネされている通り、
言葉では何を言っているのか分からない超~動物感覚的指導で、
教えられる方も大変だったと思います。
【カメ】と呼ばれるちょっと抜けた風貌ですから、
余計に鉄拳制裁を食らったかもしれません。
肩は強かったようですが、
テレビで見ていて守備の動きは今一カッコ悪くて、
正に【カメ】だな~と思っていました。
バッティングの方はダメでしたね~
打席に入る時、ホームベースの角3か所をバットの先端でコンコンコン❗️とやるのが癖でした。
『打てないのにカッコばかり付けて、情けない』
とワタクシは苦笑したものです。
守備の人でしたが、年間3割近く打った年もあります。
1985年阪神快進撃の年に老いぼれがやらかした
(出典:sports)
1985年4月16日、河埜のショートフライ落球でボロ負けした巨人は、
翌日も阪神伝説のバックスクリーン三連発、
バース❗️掛布❗️岡田❗️に猛威を奮われて、
阪神を大いに勢いづかせたのです❗️
(出典:hiro35321)
ワタクシは当時東京浪人3年目で、最後のひと踏ん張りをして頑張っておりました。
頑張れた理由は、高校の先輩上田和明選手(八幡浜高校⇒慶応大学)が前年のドラフト一位で巨人に入団したからです。
『さあ行こうーーー❗️』
と気合が入りました。
『さあ行こう』は練習中にみんなが繰り返し言い合っていた掛け声です。
『最高ーーー❗️』にも聞こえて非常にいい掛け声ですね。
彼には高校の廊下で一度ご挨拶して気さくにお話して頂いたことがあります。
河埜選手(八幡浜工業高校出身)には、同じポジションでいい後輩が入ったから、しっかり指導して欲しいと思っていたのですが、、、
この凡フライ落球以来、間抜けなプレイをたびたび目撃するようになって翌年末に引退してしまいました。
上田選手の指導どころじゃなかったでしょうね~
結局上田選手は、野球の方では全然活躍できませんでした。
河埜和正校長!上田和明副校長!
(出典:se-sports.or.jp)
河埜選手は現役引退後コーチなどを経て、【ジャイアンツベースボールアカデミー】の校長を2015年3月31日までやっていて、青少年の野球教室で教えていたそうです。
上田選手は現在も副校長をされているそうです。
『老いぼれなどと抜かして大変申し訳ありません❗️』
『あなた方は、郷土愛媛県八幡浜市の真の【巨人の星】です❗️❗️』
って、、、
正に、世田谷ベースやないか~い❗️❓️
(出典:bsfuji.tv)
河埜和正元校長❗️上田和明副校長❗️
『半人前以下の小学生みたいな爺さんに野球指導をしてもらえませんか❓️』
同郷のよしみで❗️上田選手直属の後輩だし❗️』
とは言えませんwww
が、妙な因果でよく似た名前の認知症専門医、河野和彦先生に出会いましたので、
ワタクシはコウノメソッドで認知症診療の御指導を受けます❗️
最後までお読み頂きありがとうございます。